日本史上、もっとも有名な鐘
京都市東山区の茶屋町に、方広寺(ほうこうじ)という寺があります。
京都では、方広寺というより「大仏さん」と呼んだほうが、わかりやすいようです。
京都国立博物館に、豊国神社と方広寺が隣接しています。
豊国神社と方広寺の両方とも、豊臣秀吉を祭る社寺です。
日本史に詳しい人であれば、あぁ、あの方広寺かとわかる方もいるでしょう。
この、方広寺は、かつて豊臣秀吉により、東大寺の大仏よりも大きな高さ19mの大仏が建立されたことがあります。
秀吉が造った大仏は、地震で崩壊し、その後、再建されるたびに、火災や落雷で焼失してしまうのです。
その説明は、後日の話題にさせていただきます。
秀吉が亡くなった後、跡をついだ豊臣秀頼(とよとみひでより)の後見人(こうけんにん)に、秀吉の遺言で徳川家康がなります。
この狸親父の徳川家康は、なにか口実をつけて、豊臣家の力を押さえ込もうと考えました。
そこで、豊臣秀頼にたいして、方広寺の大仏を再建するよう仕向けたのです。これは、豊臣家に、金を浪費させることが目的だったと言われています。
さて、大仏が完成し、お披露目の盛大な式典をもよおすにあたり、豊臣家が、方広寺に、大きな梵鐘(ぼんしょう)を納めたところから、豊臣家の滅亡の道が始まります。
門前の湯豆腐で有名な、南禅寺は、当時、京都の禅寺の中では、たいした力を持っていたわけではなく、京都五山と呼ばれていたのは、天龍寺、相国寺、建仁時、東福寺、万寿寺でした。
この、南禅寺の和尚が、家康に知恵を授けます。
「あの梵鐘の銘文に、後見人である家康の首をはねて、豊臣家が栄える、という隠し文字の、国家安康(こっかあんこう)、君臣豊楽(くんしんほうらく)と刻まれている。」と・・・
そこから先は、長くなるので、自習をお願いします。
その鐘が、現存することは、意外に知られていません。
方広寺を訪れる観光客も、境内の鐘楼に普通にぶら下がっている梵鐘が、その鐘だと気づかない人も多くいます。
白ペンキでマークをつけたのは、方向寺の和尚さん。マークがなければ、まず、わかりません。感謝!
豊臣家の滅亡のきっかけとなった、南禅寺は、褒美として徳川家康により、京都五山の上位の「別格」に位置づけられます。
したがって、京都五山といえば、六つの禅寺を言うのです。
The big bell of Hoko-ji Temple is the most famous in Japan.
For a letter engraved into a bell, the Toyotomi Administration collapsed.